徳川家慶の肖像画
徳川家慶
江戸幕府の12代将軍。幼名は敏次郎。11代将軍・家斉の次男として江戸城にて生まれる。兄が早世したため世子となり、45歳の時に将軍に就任したが、大御所・家斉が実権を握り君臨し続けた。家斉死後、老中首座・水野忠邦に「天保の改革」を断行させ、傾いた幕府の財政と腐敗した幕政の粛清に乗り出したが、あまりに厳しい改革は世間の反発もあり挫折した。そして、1853、幕末の幕開けとなるペリー艦隊の来航という難局に直面。その対応に幕閣が追われるなか、暑気あたりによる心不全のため死去した。墓所は東京の港区にある増上寺。将軍としてのリーダーシップを発揮することなく家臣の意見に「そうせい」と言うのみだったことから「そうせい様」と呼ばれていたという。父・家斉と同じく無類の生姜好きで、「天保の改革」の際に倹約のため生姜が食膳に上らなくなったことに激怒したとも。また、子沢山として有名な父・家斉と同じく家慶も子沢山で、14男13女の27人もいた(しかし、20歳を超えて生き残ったのは13代将軍・家定のみ)。
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