History Guide

徳川家斉の肖像画(狩野養信 画と思われる)

edo

徳川家斉の肖像画(狩野養信 画と思われる)

徳川家斉
江戸幕府の11代将軍。幼名は豊千代。御三卿のひとつ、一橋家当主・一橋治済の長男として生まれる。10代将軍・家治に世継ぎがいなかったため養子となり、家治の急死後、15歳で将軍の座に就いた。就任後、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、かわって白川藩主・松平定信を老中首座に任命した。定信は「寛政の改革」を断行し、幕府財政立て直しを図ったがあまりに厳格だったため、家斉は定信を罷免した。その後、側用人・水野忠成を老中首座につけ贅沢三昧の生活を送るようになり、財政は困窮、政治も腐敗していった。50年もの長きにわたり将軍の座にあり続け、さらに将軍職を次男・家慶に譲ってのちも大御所として権力を持ち続けた家斉だったが、その最期は誰にも気づかれぬうちに息を引き取ったといわれるさびしいものであった。墓所は東京の上野にある寛永寺。家斉は非常な子沢山で有名で、特定されているだけでも妻妾が16人おり、男女あわせて53人もの子どもがいたという。これは将軍の子どもを諸大名に養子や花嫁として送り込むという血縁戦略である。家斉は精力剤としてオットセイのペニスを粉末にしたものを服用していたといわれ、ゆえに「オットセイ将軍」とあだ名されたとも。また、無類の生姜好きで毎日欠かさず食していたという。

このエントリーをはてなブックマークに追加