池田光政の肖像画(林原美術館 所蔵)
池田光政
江戸時代前期の大名、備前岡山藩初代藩主。「江戸初期の三名君」のひとり(ほか2人は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之)。初名は幸隆(よしたか)、通称は新太郎、神号は「武安霊命」。姫路藩2代藩主・池田利隆と2代将軍・秀忠の養女である鶴姫の長男として誕生。池田輝政は祖父にあたる。7歳の時に父・利隆が死去し姫路42万石の藩主となったが、幼少を理由に因幡鳥取32万石に転封、その後、従弟の池田光仲との国替えにより備前岡山藩31万5千石の藩主となった。以後、光政の子孫が明治まで岡山藩を治める。岡山藩主となった光政は、陽明学者・熊沢蕃山を招き教育の充実に務め、全国初となる藩校・花畠教場や日本最古の庶民の学校・閑谷(しずたに)学校を開設した。また、新田開発や治水、産業の振興にも力を注いだほか、質素倹約を旨とする「備前風」を奨励し岡山藩の発展に尽力した。1672年に長男・綱政に藩主の座を譲り隠居、1682年に岡山城にて死去した。墓所は岡山県備前市の和意谷池田家墓所。
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