保科正之の肖像画(狩野探幽 画)
保科正之
江戸時代前期の大名で会津松平家初代。徳川家康の孫にあたり、父は2代将軍・秀忠。3代将軍・家光は異母弟にあたる。幼名は幸松、通称は会津中将、神号は「土津霊神」。「江戸初期の三名君」のひとり(ほか2人は水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政)。2代将軍・秀忠と秀忠の乳母の娘・静の子として誕生するが、静は正室でも側室でもなかったこともあり、正之は武田信玄の次女・見性院に預けられ養育された。その後、旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光の養子となり、正光の死後、高遠藩の藩主となった。3代将軍・家光は異母弟である正光の存在を知り対面すると、真面目な性格で有能な正之を気に入り、山形藩20万石を、次いで会津藩23万石を与えるなど厚遇し、さらに臨終の際には息子である4代将軍・家綱の後見を正之に託した。正之も将軍・家光の温情に感銘を受け、1668年に定めた『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記した。以後、幕末まで会津藩主を務めた正之の子孫たちは、藩主をはじめ藩士たちもみな忠実にこの家訓を守り、最後の藩主・松平容保も家訓に従い佐幕派の中心となり最後まで薩長軍と戦った。4代将軍・家綱の輔佐役となった正之はその政治手腕を大いに発揮し、末期養子の禁の緩和、殉死の禁止、玉川上水の開削などさまざまな政策を実行し文治政治を推進した。また、1657年の明暦の大火の際に江戸城の天守が焼け落ちたが、正之は「天守再建より民衆の生活安定を優先させるべき」と主張、以来、江戸城の天守は再建されなかった。会津藩主としても正之は藩政に力を注ぎ、産業の発展や藩士の子弟教育に尽力、好学尚武の藩風を作りあげた。1669年に嫡男・正経に家督を譲り隠居、その3年後、江戸三田の藩邸で死去、神式で葬られた。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、隣接する土津神社に祭神として祀られている。
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