天草四郎の肖像画(1991年の普賢岳噴火災害で焼失した)
天草四郎
生年は1623年とする説もある。江戸時代初期のキリシタンで、日本史上最大の一揆「島原の乱」の一揆軍における最高指導者。本名は益田四郎、一般に「天草四郎時貞」の名で知られる。洗礼名はジェロニモのちフランシスコ。キリシタン大名・小西行長の遺臣である益田甚兵衛の子として天草諸島の大矢野島にて生まれたとされるが諸説ある。出身地や生年をはじめその生涯は不明点が多いが、生まれながらにカリスマ性を持ち、幼い頃から頭脳明晰だったといわれる。1637年、キリスト教弾圧と厳しい年貢の取立てに島原、天草の領民が一揆を起こすと、カリスマ的人気を持っていた四郎は一揆軍総大将に担ぎ出され3万7千の一揆軍を率いることとなった。十字架を掲げ軍を率いたともいわれるが、四郎は10代半ばの少年でありシンボル的存在にすぎなかったと考えられる。一揆軍は原城に立てこもり、3カ月にもおよぶ篭城戦を続け幕府軍を手こずらせたがついに城は陥落、幕府軍の総攻撃により一揆軍は皆殺しにされ、四郎も討ち取られた。ちなみに、四郎には豊臣秀吉の子・秀頼の御落胤説があるが信憑性は低い。また、実像については史料が乏しく外見の特徴なども不明だが、小説やドラマなどのフィクションでは美少年として登場することが多い。
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