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大塩平八郎の肖像画

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大塩平八郎の肖像画

大塩平八郎
江戸時代後期の儒学者で、幕府に対し起こした反乱「大塩平八郎の乱」の首謀者。通称は平八郎、諱は正高のち後素(こうそ)、字は子起、号は中斎。家紋は揚羽。大坂町奉行組与力を代々務める大塩家の八代目として、大坂天満にて生まれる。不正を嫌う厳格な性格で町奉行の役人として辣腕を振るった。38歳の頃に与力の職を辞し、実践を重視する儒学の一派「陽明学」を独学で学び、自宅に私塾「洗心洞」を開くと子弟の教育にあたった。「天保の飢饉」の際、奉行所に窮民救済を進言するも聞き入れられず、平八郎は蔵書を売って救済にあたった。しかし、飢饉による米価高騰などの影響で各地で一揆が勃発するなか、平八郎は武装蜂起を決意、1873年3月25日、民衆と共に蜂起した(大塩平八郎の乱)。だが、門人の密告により、反乱はわずか半日で鎮圧され、逃亡した平八郎も1カ月あまりののちに逃亡先の大坂下船場の商家にて役人に囲まれるなか養子とともに自決した。平八郎は自決の際に火薬を用いたため遺体は本人確認ができないほど損傷が激しく、また、吟味が長期に及んだことで磔刑が行われたのが乱から1年も過ぎていたうえ塩漬けの遺体だったため、大塩平八郎生存説がまことしやかにささやかれた。墓所は大阪市北区にある成正寺。幕府の元役人である平八郎が「天下の台所」大坂という幕府の重要直轄地で起こした反乱は、幕府や民衆に大きな衝撃を与え、全国で同様の反乱を生むようになり、幕府の権威を下げることとなった。

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