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水野忠邦の肖像画(椿椿山 画)

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水野忠邦の肖像画(椿椿山 画)

水野忠邦
江戸時代後期の大名で、肥前唐津藩主のち遠州浜松藩主。幕府老中として“三大改革”のひとつ「天保の改革」を実行したことで知られる(ほか2つは「享保の改革」「寛政の改革」)。幼名は於莵五郎。唐津藩3代藩主・水野忠光の次男として生まれるが、兄が早世したため世子となり父の隠居後に唐津藩4代藩主となった。幕閣入りを熱望していた忠邦は賄賂を使い、さらに唐津藩から浜松藩への転封を志願し実現させ、寺社奉行という幕府の重役につくことがかなった。その後、11代将軍・家斉のもとで頭角を現すようになり、ついには老中首座として幕政のトップに立つまでになった。当時、「大塩平八郎の乱」や「モリソン号事件」など国内での反乱や対外事件が頻発、さらに家斉時代の浪費により幕府の状況は逼迫していた。家斉の死後、忠邦は12代将軍・家慶のもと幕政を立て直すため「天保の改革」を断行、家斉時代の人材を一掃し、奢侈禁止・風紀粛清や農村復興、軍制改革などを行った。忠邦は庶民に対してもぜいたくを厳しく禁じ、歌舞伎や浮世絵など庶民の娯楽にも制限を加え庶民の恨みを買うことになったという。改革の失敗により忠邦は老中を失脚するが、わずか1年足らずで老中首座に再任。しかし、かつての勢いはなくまもなく老中を辞職、1851年に死去した。墓所は茨城県結城市にある万松寺跡。

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