沢庵宗彭の肖像画
沢庵宗彭
俗に沢庵和尚(たくあんおしょう)と呼ばれている。江戸時代前期の臨済宗の僧。法諱は初め季喜、のち宗彭。道号は沢庵。号は冥之・東海・暮翁等。俗姓は秋庭。但馬国主・山名祐豊の重臣・秋庭綱典の次男として但馬国出石で生まれるが、10歳の時に出家した。その後、京の大徳寺住持にまで出世したが、名利を求めぬ沢庵は3日でこれを辞し、故郷・出石に戻ると宗鏡寺に庵「投淵軒」を結び隠棲生活を送った。1629年、「紫衣事件」で幕府に反発したことから出羽上山に流罪となるが、3年後に許された。3代将軍・家光が沢庵に帰依するようになると幕命により江戸へ出て、のちに家光が江戸品川に創建した東海寺の初代住職となった。死に際し、沢庵は「夢」のひと文字を書いたという。墓所は東京都品川にある蔓松山東海寺と兵庫県出石にある宗鏡寺。沢庵は当時を代表する禅僧として徳川家光や柳生宗矩、柳生三厳(十兵衛)をはじめ多くの大名や貴族から帰依を受けたが、決して権力にこびることなく名利を求めなかった。詩歌、俳諧、書画、茶道にも通じたという。ちなみに、大根の漬物いわゆる「沢庵漬け」は沢庵が考案したものともいわれるが諸説あり真偽は不明。また、小説などフィクションでは剣豪・宮本武蔵と親交があるが、史実において両者が接触したという記録はない。
ツイート |