徳川綱吉の肖像画
徳川綱吉
江戸幕府の5代将軍でもと上野国館林藩主。幼名は徳松。別名は松平綱吉。通称は館林参議、館林宰相。3代将軍・徳川家光の四男として(母は側室・お玉)江戸城にて生まれる。館林25万石の藩主となったが、基本的には江戸在住で館林に寄ったことは1度のみといわれる。兄で4代将軍の家綱に世継ぎが誕生しなかったため、家綱の養子となり、家綱の死後、5代将軍に就任した。儒学に造詣の深かった綱吉は、徳を重んじる「文治政治」を推進、学問の中心地として湯島聖堂の建立などを行った。治世前半は「天和の治」と称えられるほどの善政を敷いていたが、1684年に大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されるという事件が起きて以降、綱吉は大老を置かず、側用人の柳沢吉保らを重用し独裁的な政治を行うようになっていった。“悪法”として名高い「生類憐みの令」を発したのは有名で「犬公方」と揶揄された。なお、『忠臣蔵』で名高い「元禄赤穂事件」が起きたのも綱吉治世のこと。1709年に死去。嫡男・徳松が死去していたため、甥で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)が将軍継嗣となった。墓所は東京の上野にある寛永寺。
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