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平田篤胤肖像(画・渡邊刀水)

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平田篤胤肖像(画・渡邊刀水)

平田篤胤
江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者。復古神道(古道学)の大成者で、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに「国学四大人(しうし)」のひとりに数えられる。幼名は正吉、通称は半兵衛、元服後は胤行のち篤胤、号は気吹舎(いぶきのや)、医者として「玄琢」を名乗った。出羽国久保田藩の大番組頭・大和田清兵衛祚胤の子として、久保田城下の下谷地町(現・秋田市)にて生まれる。20歳の時に江戸へ出て、25歳の時、山鹿流兵学者・平田篤穏(あつやす)の養子となった。国学者・本居宣長に夢のなかで弟子入りしたといい、「没後の門人」を称する。宣長による『古事記』や『万葉集』などの研究から神道を学び、その後、『古道大意』や『俗神道大意』などを著し国学者として名を知られるように。篤胤は日本古来の神道から、仏教、儒教、道教、キリスト教など多様な宗教に精通し、蘭学、暦学、易学、兵学にも通じるマルチな才能の学者であった。こうした広範で深遠な学識から、篤胤は、「人は死後に大国主神(おおくにぬしのかみ)のいる幽冥に行く」と説き、独自の復古神道を大成させた。篤胤は膨大な著作を残したことでも知られ、執筆に集中すると何日も寝食を忘れ不眠不休で書き続け、疲れが限界に達すると倒れるように眠り、起きるとまた書き続けたという。代表的な著書に、『霊能真柱(たまのみはしら)』、古代研究書『古史成文』『古史伝』、天狗小僧寅吉から聞いた異世界のようすをまとめた『仙境異聞』、妖怪奇譚『稲生物怪録(いのうもののけろく)』など。また、多くの門人を育て、その数は553人にものぼる。晩年は幕府の政策を批判したとして著述を禁じられ、故郷の秋田に戻り68歳で他界した。辞世の句は「思ふこと一つも神につとめ終えず今日やまかるかあたらこの世を」。墓所は秋田県秋田市手形にあり国の史跡となっている。また、東京都渋谷区に篤胤を祀った平田神社がある。篤胤の没後もその思想は弟子たちによって広まり、幕末の尊皇攘夷運動の精神的根拠となって明治維新をリードした。小説家・島崎藤村の長編小説『夜明け前』は平田学派に傾倒した若者が主人公である。

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