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大黒屋光太夫と船員・磯吉

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大黒屋光太夫と船員・磯吉

大黒屋光太夫
江戸時代後期の船頭。ロシアに漂着し帰国した最初の日本人として知られ、その数奇な運命は小説や映画など多くの作品に取り上げられている。幼名は兵蔵。伊勢国南若松村(現・三重県鈴鹿市)にて代々船にかかわる仕事をする家に生まれた。光太夫も長じて廻船問屋に雇われると、江戸と伊勢を往復する廻船の船頭となった。1782年(天明2)、光太夫は自身を含む17人の乗組員とともに「神昌丸」に乗り込み、紀州藩の囲米(かこいまい)を江戸へ運ぶため伊勢国白子の浦から出航した。しかし駿河沖にさしかかった頃、暴風雨にあい漂流、7ヶ月にもおよぶ漂流の末に一行はアリューシャン列島のひとつアムチトカ島に漂着した。言葉も通じない極寒の地での過酷な状況のなか、光太夫らは遭遇したロシア人などからロシア語を学んだ。4年後、一行は帰国許可を得るためカムチャッカを経由してイルクーツクへ4000kmを旅した。イルクーツクで出会ったロシア人博物学者キリル・ラクスマンら協力者の尽力もあり、一行は女帝エカチェリーナ2世に謁見し、ついに帰国を許された。そして1792年(寛政4)、キリルの息子であるアダム・ラクスマンが遣日使節となり光太夫、磯吉、小市の3人が根室に上陸、漂流から10年ぶりの帰国であった。しかし、小市は根室で死亡、光太夫と磯吉の2人は日本側に引き取られると江戸へ送られた。光太夫は帰国後、江戸城にて11代将軍・家斉の御前で取調べを受け、その時の記録は蘭学者・桂川甫周(ほしゅう)が『漂民御覧之記』としてまとめた。その後、光太夫と磯吉は江戸の小石川にある薬草園に居宅を与えられ生涯をすごした。光太夫が故郷・伊勢の地を踏んだのは帰国から10年後のこと。ちなみに、三重県鈴鹿市若松東には光太夫一行が死んだものと思った荷主によって建立された供養等があり、鈴鹿市の文化財となっている。江戸での光太夫は、蘭学者・桂川甫周にロシアでの体験を詳細に語ったり、同じく蘭学者の大槻玄沢(おおつきげんたく)が主催したオランダ正月を祝う「新元会」に出席しロシアについて語るなど、当時の知識人と交流を深め、蘭学の発展に寄与した。なお、桂川甫周は光太夫から聞いた内容などをもとに地誌『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』を著している。光太夫を題材にした作品として、井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』や吉村昭の小説『大黒屋光太夫』が有名。光太夫の生家近くにある大黒屋光太夫記念館には光太夫の肖像画、手紙、ロシアから持ち帰った器物など貴重な資料が展示されている。

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