徳川光圀(水戸黄門)の肖像画(作は明治時代以降)
徳川光圀
江戸時代前期の大名で常陸水戸藩2代藩主。「水戸黄門」としてドラマなどでも有名。幼名は長丸、字は子龍、号は梅里、神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。「江戸初期の三名君」のひとり(ほか2人は会津藩主・保科正之、岡山藩主・池田光政)。徳川幕府初代将軍・徳川家康は祖父に当たる。水戸徳川家当主・水戸頼房の三男として、水戸家家臣・三木之次の屋敷で生まれた。三男ながら3代将軍・家光などの意向もあり水戸家世子となる。若い頃はいわゆる不良少年で、吉原通いをしたり辻斬りを行うなど素行が悪かったが、18歳の時に司馬遷の『史記』に感銘を受け、以降、学問に熱中するようになる。父・頼房が死去した際、家臣の殉死を禁じた(幕府が殉死禁止令を出したのはこれから2年後)。藩主時代には、上水道(笠原水道)の整備や寺社改革、巨大船・快風丸での蝦夷地探検などを行った。また、江戸小石川藩邸に史局「彰考館」を置き、本格的な日本の通史『大日本史』の編纂作業を行った(史局はもともと駒込邸にあったが移設)。そのほか、明から儒学者・朱舜水を招き儒学を奨励、「水戸学」の礎を築いた。名君として知られた光圀は幕政にも大きな影響力を持ち、5代将軍・綱吉の時代には「生類憐みの令」に猛反発するなど存在感を示した。兄弟の序を重視した光圀は、兄・頼重の子、綱条(つなえだ)を養嗣子としこれに藩主の座を譲り引退すると、水戸の北方にある西山の地(現在の常陸太田市)に西山荘(せいざんそう)を建て隠居生活を送った。晩年は、侍塚古墳の発掘調査、那須国造(なすくにのみやつこ)碑をはじめ多くの文化財の保護に努めた。食道がんのため他界、墓所は茨城県常陸太田市にある水戸徳川家累代の墓所・瑞龍山など。光圀といえば「水戸のご老公」として映画やドラマで大衆のヒーローとして人気を集めるが、いわゆる「黄門漫遊譚」は江戸時代後期から明治期以降に誕生したフィクションで、実際の光圀は諸国漫遊はしておらず現在の関東地方から出た記録はない。性格としては非常に好奇心旺盛な人物だったといわれ、ラーメンや餃子、チーズなどを日本で初めて食したり、オランダ製の靴下を愛用したり、海外から取り寄せたインコを飼育したという。
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