国定忠治の肖像画
国定忠治
江戸時代後期の侠客。本名は長岡忠次郎。「国定」は生まれ故郷の上野国佐位郡国定村(現・群馬県伊勢崎市国定町)に由来する。天保の大飢饉(1833~)の際、困窮する農民を救済した侠客として、のち講談や映画などで取り上げられ庶民のヒーローとなった。忠次は豪農の家の生まれで、若くして父を亡くし無宿人(戸籍台帳である人別長から名を消された人)となった。やがて博徒となり、上州勢多郡前田村(現・群馬県前橋市)の博徒・大前田英五郎の縄張りを引き継ぎ百々村の親分となった。縄張りを巡って敵対していた島村伊三郎を謀殺したため、関八州取締り役に追われる身となり、以降、逃亡と潜伏を繰り返した。一家を形成した忠次は赤木山を根城にし力を蓄え、やがて関八州の治安を脅かす存在へとなっていった。しかし、1850年(嘉永3)、潜伏先にいたところを主だった子分たちとともに捕縛され、磔の刑に処された。墓所は群馬県伊勢崎氏国定村にある金城山養寿寺と同市曲輪町にある善應寺。忠次と敵対した博徒・島村伊三郎と、忠次に殺害された目明し・三室勘助だが、三者の子孫らは「忠次だんべ会」の仲裁により2007年に手打ち式を行い170年の時を超えて和解した。フィクションにおける忠次といえば、「赤城の山も今宵かぎりか…」の名ゼリフが有名で、多くの講談や新国劇、大衆演劇で定番ものとして人気が高い。また、『忠次旅日記』(1927年、大河内傳次郎主演)『国定忠次』(1960年、三船敏郎主演)など映画も多くつくられたほか、『赤城の子守唄』『名月赤城山』などといった歌にもなっている。
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