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金地院崇伝の肖像画(狩野探幽 画、京都府京都市の金地院 所蔵)

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金地院崇伝の肖像画(狩野探幽 画、京都府京都市の金地院 所蔵)

金地院崇伝
徳川家康の外交僧として活躍した臨済宗の僧。以心崇伝とも呼ばれる。あだ名は「黒衣の宰相」。 金地院崇伝は、父・一色秀勝の子として誕生し、父の没後、京の南禅寺で修行、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。南禅寺の270世住職となった3年後の1608年、徳川家康に招かれ駿府へ赴き外交関係の書記を務めていたが、やがて政治にも深く関わるようになっていった。崇伝は家康のもとで、キリスト教の禁令や寺社法度、武家法度、禁中並公家諸法度など幕府の根幹を成す重要法の制定に関与した。 また、1614年には、豊臣秀吉の遺児・秀頼が方広寺に奉納した鐘の「国家安康 君臣豊楽」という銘について「徳川家を呪うものである」との難癖をつけたいわゆる「方広寺鐘銘事件」の黒幕を演じたといわれる。1616年に家康が没すると、神号を巡って天海と争い敗れた。

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