松平忠輝の肖像画
松平忠輝
徳川家康の六男で越後高田藩主。幼名は、辰千代。通称は、越後少将。おもな官位は、上総介、従五位下、従四位下、左近衛権少将。
妻は伊達政宗の長女・五郎八姫。家康の六男として誕生した忠輝だが、生母・茶阿局の身分が低かったことや容貌が醜かったことなどから父・家康に終生嫌われたという。誕生したばかりの忠輝は家臣の皆川広照に養育された。その後、順調に出世を果たし1610年には越後高田藩60万石の大封を与えられた。
しかし、1614年の大坂冬の陣の際には留守居役を命じられ、翌年の夏の陣では大和方面の一隊を指揮したものの本戦に遅参、さらに進軍中に将軍・秀忠の旗本を無礼討ちにするなど不行跡があった。そのため戦後、忠輝は兄・秀忠から改易を命ぜられ、伊勢国朝熊に配流となった。不遇の生涯を送った忠輝だったが91歳の長寿を全うした。
なお、父・家康とは生涯不仲であったといわれるが、実は不和は解消されていたという説もある。忠輝は父・家康から、織田信長、豊臣秀吉、家康と受け継がれてきた銘笛「乃可勢の笛(野風の笛)」を渡されていたというのである。
Originally uploaded by: 貞松院
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