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松平信康の肖像画(勝蓮寺 所蔵)

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松平信康の肖像画(勝蓮寺 所蔵)

松平信康
徳川家康の長男である。 幼名は竹千代。通称は岡崎三郎。母は今川義元の姪である築山殿。 幼少期は今川氏の人質として駿府で過ごし、桶狭間の戦い後の1561年、岡崎城へと戻った。1567年にはわずか9歳で同じく9歳の織田信長の娘・徳姫と結婚、1570年に父・徳川家康が浜松城に移ると岡崎城を譲られた。松平信康は勇猛果敢な性格で武将としての天賦の才に恵まれ、その勇名は広く知られ、家康も信康の将来を楽しみにしていたという。だが、1579年、信康が21歳の時、妻である徳姫が父・信長に対し、「信康の母・築山殿が武田勝頼と内通している」という密告文を送る。これに激怒した信長は家康に信康の切腹を命令。苦渋の決断を迫られた家康だが信長には逆らえず、ついに信康に切腹を命じ、1579年10月5日、服部正成(服部半蔵)が介錯人となり信康は幽閉先の二俣城で自害した。なお、内通を疑われた母・築山殿は信康自害の前に徳川家家臣によって殺害された。家康はのちのちまで信康の死を惜しみ、1600年の関ヶ原の戦いの際には「信康がいれば……」とつぶやいたともいわれている。

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