フランシスコ・ザビエル肖像画
フランシスコザビエル
カトリック教会の司祭、宣教師で、イエズス会の創設メンバーのひとり。日本に初めてキリスト教を伝えた人物として名高い。ザビエルは、1506年にナバーラ王国の貴族の息子として誕生した。19歳の時に名門パリ大学に留学、聖バルバラ学院で学んだ。そして、1534年8月15日にモンマルトルの聖堂でイグナチオら7人とともに「生涯を神に捧げる」という誓い「モンマルトルの誓い」を立てた。これが世界布教を目指したイエズス会創設の第一歩となり、この日をもって創立日とされる。1540年にはローマ教皇パウルス三世から正式な認可を得た。その後、ポルトガル王ジョアン三世の要請によりザビエルは当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに布教のため出発、ゴアに到着するとインド各地で布教活動に励んだ。さらにマラッカ、モルッカに赴き布教活動を行いキリストの教えを広めた。1547年、ザビエルはマラッカでアンジロー(ヤジロウ)という鹿児島出身の日本人に出会い、日本での布教を志すようになる。そして1549年、ザビエルは洗礼を受けたばかりのアンジローらをともないゴアを出発し日本を目指し、同年、鹿児島に到着することに成功した。1549年に薩摩で布教活動を開始したのを皮切りに、平戸、山口などで布教を行いながら京を目指し、1551年に京へたどり着いた。だが、戦乱により当時の京は乱れており布教活動はままならず、ザビエルは失意のうちに京をあとにし再び山口に入った。大内義隆から布教の許可を得たザビエルは、住居として与えられた大道寺を拠点に布教を行い約2ヶ月の間に500人もの信徒を獲得したといわれる。さらにザビエルは豊後に赴き、守護大名・大友宗麟の保護を受け布教活動に励みさらに日本での信徒を増やした。1551年、ザビエルは一度インドに戻ることを決意し日本を離れる。日本でのこれからの布教のためには日本文化に影響を与えている中国を無視することはできないと考えたザビエルは、中国での布教を目指したが中国への入国は果たせなかった。心身ともに疲れきったザビエルは病を得て、1552年、中国の上川島で病死した。
ツイート |