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大内義隆の肖像画

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大内義隆の肖像画

大内義隆
大内氏の31代当主で、周防・長門・安芸・豊前・筑前・山城などの守護を務めた戦国大名。 父は大内義興。幼名は亀童丸。受領名は周防介。尊称は大内介。おもな官位は、兵部卿、大宰大弐、侍従、従二位。大内義隆は父・義興が病死したことを受け家督を相続すると、九州地方に出兵し豊後の大友氏や筑前の少弐氏と交戦した。さらに尼子晴久が安芸に侵攻してくるとこれを撃破、安芸を支配下に置くことに成功した。 1542年には、尼子氏の本拠をたたくため出雲遠征を行い尼子晴久の居城・月山富田城を包囲したが見方だった国人衆の裏切りもあり大敗してしまう。さらにこの戦いで養嗣子・晴持が戦死してしまった。この敗戦を機に義隆は戦いに嫌気がさすようになり、もともと関心の強かった文化方面へのめりこんでいく。 大内義隆は山口に公家や学者を招き京風を取り入れた「大内文化」を創始したり、明や朝鮮とも貿易を行い海外文化も積極的に取り入れた。また、政治面でも文治派の人物を重用するようになった。だが、こうした義隆の態度に武断派の陶晴賢(隆房)らは不満を抱くようになる。そしてついに1551年、陶晴賢は挙兵しクーデターを決行、義隆は長門深川の大寧寺に逃れたが自刃し果てた。また、義隆の子・義尊も陶軍によって殺害された。

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