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新納忠元の肖像画

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新納忠元の肖像画

新納忠元
島津氏の庶流・新納家の出身で、島津氏3代に仕えた重臣。小柄ながら武勇に優れ「鬼武蔵」「大指(親指)武蔵」の異名をとった。 幼名は阿万丸。別名は拙斎、為舟。おもな官位は、武蔵守、刑部大輔。 新納忠元の父・祐久も島津氏の重臣で、その父に連れられ忠元は13歳のときに島津忠良に謁見、以後、島津氏に仕えた。1562年の横川城攻め、1569年の大口城攻め、1572年の木崎原の戦い、1584年の沖田畷の戦いなど数々の合戦に参加し大いに武功をあげた。豊臣秀吉による九州征伐の際にも忠元は徹底抗戦を唱え、主君・義久が降伏するにいたってようやく抵抗をやめた。それがかえって秀吉の興味をひき、大名として取り立てるとの誘いを受けたが忠元は固辞したという。 「武勇は鬼神の如し」と評された忠元だが、その一方で和歌や連歌への造詣も深く、陣中でも火縄の灯りで『古今和歌集』を読んでいたともいわれている。文武両道に優れた新納忠元は、島津氏になくてはならない人材の筆頭に数えられたという。

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