鍋島直茂の肖像画
鍋島直茂
「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信の右腕的存在で、佐賀藩の藩祖。
幼名は彦法師丸。通称は孫四郎。別名は左衛門大夫。信安、信真、信昌、信生、直茂と何度も改名した。あだ名は、「龍造寺の仁王門」「老虎」。おもな官位は、飛騨守、加賀守、従五位下。
父・鍋島清房の後妻として入ったのが主君・龍造寺隆信の生母だったため、隆信とは主従関係にあると同時に義兄弟であった。そのため隆信からの信頼は絶大で、直茂もその信頼に応えるように隆信の右腕として龍造寺家を支えた。特に1570年の今山の戦いでは、6万ともいわれる大友の大軍勢を相手に、籠城策に傾く味方を励まし夜襲を進言しこれを指揮、見事に夜襲を成功させた。
こうした武功により直茂の存在は家中でますます大きなものとなっていった。隆信が隠居し嫡男・政家があとを継ぐと、直茂はその後見役を任される。そして、1584年の沖田畷の戦いで島津氏にまさかの大敗を喫したあげく隆信は死亡、生き残った直茂は政家を支え龍造寺家の再興に尽力した。
豊臣秀吉が天下人となると直茂は表向きは島津氏に服従しながらも早くから秀吉に通じ、所領安堵を図った。この頃になると龍造寺家の実権は当主の政家ではなく直茂の手中にあり、秀吉による朝鮮出兵の際も直茂が龍造寺家臣団を率いて参戦している。1600年の関ヶ原の戦いでは直茂は東軍勝利を予想し、九州の西軍諸将と交戦、戦後、その功が認められ所領を安堵された。
その後、鍋島氏を当主とする佐賀藩が成立したが、鍋島直茂は主家・龍造寺氏に遠慮し自ら藩主の座に就くことはなかった。
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