龍造寺隆信の肖像画
龍造寺隆信
肥前の戦国大名で、大友氏、島津氏と並ぶ九州三強のひとり。幼名は長法師丸。胤信とも名乗った。受領名は山城守。号は円月坊。あだ名は「肥前の熊」。
龍造寺隆信は幼い頃に寺に入りそこで養育された。隆信が16歳のとき、祖父・龍造寺家純と父・周家が主家である少弐氏から謀反の疑いをかけられ龍造寺一族は謀殺されてしまう。隆信はかろうじて生き残った曽祖父・家兼に連れられ筑後柳川の蒲池氏のもとへ逃れた。その後、蒲池鑑盛の庇護を受け一族の仇である馬場頼周を討ち果たし、龍造寺家を再興した。なお、曽祖父・家兼はその直後に高齢のため病没したが、隆信を還俗させ水ヶ江龍造寺家を継ぐよう遺言していた。隆信は曽祖父の遺言に従い還俗し水ヶ江龍造寺家を相続、その後、本家の村中龍造寺家も継承した。
龍造寺隆信は大内氏と手を結びその力を背景に次第に勢力を強めていった。だが、1551年、大内義隆は家臣・陶晴賢の謀反により死亡、後ろ盾を失った隆信は周辺国人の反乱に遭い筑後を追われ、再び蒲池鑑盛のもとへ逃れた。その2年後、蒲池氏の援助を得て御家再興の兵を挙げ勝利すると肥前の旧領を奪還した。以降、隆信は大友氏に従属する姿勢を保ちながらも積極的に勢力拡大を図り、徐々に勢力圏を広げていった。そして、1578年、耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗を喫すると、これを好機と見た隆信は大友氏に離反、筑前や筑後、豊後、肥前、肥後さらには壱岐、対馬の「五州二島」を手中に治めるまでに急成長していった。1584年、龍造寺氏に離反し島津氏に通じた有馬晴信を討伐すべく隆信は自ら6万ともいわれる大軍勢を率いて出陣した。対する有馬・島津連合軍は5000ばかり。圧倒的に有利な戦いであったが、龍造寺軍は大敗を喫してしまい隆信も討ち死にを遂げた(沖田畷の戦い)。隆信の死により絶頂期にあった龍造寺氏も衰退していった。
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