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立花道雪の肖像画

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立花道雪の肖像画

立花道雪
豊後の戦国大名・大友氏の全盛期を支えた猛将で、大友氏「三老」のひとり(ほかは、吉弘鑑理、臼杵鑑速)。 立花の名跡を継いだが本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連、戸次道雪を名乗った。幼名は孫次郎。号は麟伯軒道雪。あだ名は、鬼道雪、雷神。おもな官位は、伯耆守、紀伊守、丹後守、左衛門大夫。 若い頃に落雷を受けて半身不随となり、それ以降、輿に乗って戦場で指揮を執ったといわれるが真偽のほどは不明。道雪は大友氏一門である戸次家に生まれ、1526年、父の死を受け家督を相続し大友義鑑に仕えた。初陣で敵将を生け捕りにするという大手柄を立て、義鑑から賞賛された。 1550年、家中を二分する家督相続争い、いわゆる「二階崩れの変」が勃発。このとき道雪は義鑑の嫡男・宗麟を支持、その家督相続に尽力し、宗麟が当主となると家臣団の筆頭として重きをなした。道雪の活躍は目覚しく、特に北九州へ侵攻を図った毛利氏との抗争では重要な役割を果たしている。1571年には立花氏の名跡を継ぎ立花山城主となった。なお、立花家の家督はひとり娘・誾千代に譲っている。隆盛を誇った大友氏も次第に衰退し始めた頃、主君・宗麟は島津氏との決戦を決める。この決断に道雪は反対したが聞き入れられず、宗麟は日向侵攻を強行した。だが、耳川の戦いで大友氏は島津氏に大敗を喫したのみならず、多くの有力家臣まで失ってしまった。 立花道雪も筑後を守って戦ったが、1585年11月2日、高良山の陣中において病没した。

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