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村上義清の肖像画

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村上義清の肖像画

村上義清
信濃国埴科郡葛尾城の城主で、村上氏全盛期の当主。 幼名は武王丸。おもな官位は、右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守、兵部大輔、左近衛少将、従五位下、従四位下、正四位。 葛尾城主・村上顕国の子として誕生した村上義清は、家督を相続し当主となると佐久・小県地方などへ勢力拡大を図った。同じ頃、甲斐の武田信玄は信濃侵攻を開始、両者はまず1548年に上田原で激突した。この上田原の合戦で、義清は武田軍に大勝、武田方の有力武将・板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門らを討ち取った。 続いて1550年、再び武田信玄が小県に侵攻、7000人をもって義清の出城である砥石城へ攻撃をしかけた。兵力で劣る義清方だったが武田軍を挟撃し砥石城から撤退させるとこれを猛追、武田二十四将のひとり横田高松をはじめ約1200もの兵を討ち取る大勝利を収めた。 2度までも義清に大敗した信玄は真田幸隆に村上陣営の切り崩し工作を命じる。その結果、1551年、砥石城は幸隆の手によって落とされた。以後、義清の勢力は一気に下落していく。1553年には義清の居城・葛尾城までも武田勢に攻略され義清は葛尾城を脱出、体勢を整えると一度は奪還に成功したが大軍を率いて攻め寄せた武田軍により窮地に追い込まれて、義清は越後の上杉謙信を頼りやむなく信濃を去った。 村上氏の勢力衰退は、このあとに5回にわたり勃発する信玄と謙信による川中島合戦の原因のひとつとなった。その後、義清は越後根知城の城主となり上杉家臣団の一員として川中島合戦にも参加した。特に1561年の第四次川中島合戦では信玄の弟・武田信繁を討ち取ったという。だが、旧知回復の悲願は果たせぬまま1573年2月3日、義清は根知城で没した。義清の悲願は子・国清に引き継がれ、1582年に武田氏が滅亡し国清が海津城代に任命された際に旧知回復を果たすことができた。

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