三浦道寸の肖像画(英雄百首)
三浦道寸
平安時代より三浦半島を支配した名門・三浦氏の事実上最後となる当主。
本名は義同。別名は三浦介。よく知られる道寸は出家後の号。おもな官位は従四位下陸奥守。
三浦道寸は扇谷上杉高救の息子として誕生したが、名門・三浦氏の当主で相模国新井城主・三浦時高の養子となった。だが、時高に実子・高教が誕生すると道寸の立場は微妙なものとなる。やがて、時高・高教父子と不仲になった道寸は出家し道寸と号す。
そして、1494年、三浦道寸は母の実家である大森氏の支援を得て新井城を攻撃、時高・高教父子を攻め滅ぼすと三浦家当主の座と相模守護の職を奪い取った。その後、道寸は子の義意に家督を譲ると相模岡崎城に入った。一方、小田原城を大森藤頼から奪い勢いに乗る北条早雲は本格的に関東への進出を図り始めていた。1512年、ついに道寸の岡崎城は早雲の攻撃にあう。敗色濃厚となると道寸は岡崎城を脱し、次男・義意が守る新井城へ退却、父と子は篭城戦を開始する。新井城は三方を海に囲まれた天然の要害で守りは堅く早雲といえど落とすのは容易ではなかった。篭城戦は3年にもおよぶ長いものとなった。だが、1516年、ついに力尽き新井城は落城、道寸は家臣ともども討ち死にした。
三浦道寸の辞世の句は「討つ者も討たるる者も土器(かわらけ)よくだけて後はもとの土くれ」。なお、このとき、全滅した三浦一族と家臣たちの血で海は一面赤く染まり、まるで油を流したような有り様になったため、以後、この湾は「油壺」と呼ばれるようになったという。
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