伊達成実の肖像画
伊達成実
伊達政宗の重臣中の重臣。亘理伊達氏の初代当主。
幼名は時宗丸。仮名は藤五郎。受領名は兵部。官位は安房守。
伊達成実は1568年、大森城主・伊達実元の嫡男として誕生、1583年に家督を相続し大森城主となった。武勇に優れ、1585年の人取橋の戦い、1588年の郡山合戦、1589年の摺上原の戦いなど数々の戦いで武功を挙げた。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐の際、遅参した政宗に秀吉との全面対決を主張したという。伊達家の中核として重きをなしていた成実だが、その後、突然伊達家を出奔する。なお、出奔時期や理由については諸説あり定かではない。出奔中、成実の勇名を知る上杉景勝や徳川家康から高禄をもって仕官の誘いがあったが、成実はこれらを断っている。
そして、1600年、片倉景綱らの説得によって成実は伊達家へ帰参、1602年には亘理城主となった。復帰後も成実は伊達家のなかで重要な地位にあり、伊達政宗没後も二代藩主・忠宗の下で家中の中核を担った。また、領地の開発も熱心に行った。最後まで現役を貫いた成実は、1646年7月16日、家督を養嗣子の宗実に譲った4ヵ月後にこの世を去った。
ちなみに、成実の兜の前立は毛虫をかたどった珍しいものである。これは、決して後ろにひかないという毛虫の習性にあやかったものという。また、政宗の軍記と逸話を集めた『成実記』は成実の著といわれる。
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