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伊達稙宗の肖像画

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伊達稙宗の肖像画

伊達稙宗
伊達氏十四代当主であり、伊達政宗はひ孫にあたる。 当初は高宗と名乗っていたが、室町幕府十一代将軍・足利義稙から一字賜り稙宗と改名した。和歌を好み、号は受天。おもな官位は、左京大夫、従四位下。 伊達稙宗は、1488年、伊達尚宗の嫡男として誕生した。1514年には父の死をうけ、伊達氏十四代当主となった。子供が多かった稙宗は、周辺地域の有力者との婚姻や養子縁組によって縁戚関係を築き急速にその勢力を拡大していき、1522年には陸奥守護に任ぜられるまでになった。勢力拡大に成功した稙宗は、次に体制強化に力を注ぎ、1536年には分国法『塵芥集』を制定した。これは171カ条からなるもので、伊達氏の統治体制の基礎となった。 だが、三男・実元を越後守護・上杉定実へ入嗣させたことなどをめぐって稙宗と嫡男・晴宗や家臣団との間に対立が生じる。やがてこの内紛は周辺領主を巻き込んだ大規模な争いに発展、奥州全土を揺るがす「天文の乱(洞の乱)」が勃発した。当初、稙宗方が優勢であったが見方だった蘆名氏などが晴宗に寝返り形成は逆転、1548年、稙宗は敗北し家督を晴宗に譲ると隠退することとなった。そして1565年7月16日、稙宗はその生涯に幕を下ろした。

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