仙石秀久の肖像画
仙石秀久
豊臣秀吉の最古参の家臣のひとりで、信濃国小諸藩の初代藩主。
通称は権兵衛。別名は秀康、盛長。おもな官位は越前守。
少年期から羽柴秀吉に仕え、各地を転戦し武功を挙げた。1583年には淡路国洲本城の城主となり5万石を与えられ、さらに1585年の四国攻めでも戦功を立て讃岐国高松10万石に加増された。
こうして順調に出世の階段を上っていった秀久だが、1586年の九州征伐で大失態を犯してしまう。四国勢の軍監に任命された秀久だったが、九州征伐の緒戦となった戸次川の戦いで功を焦るあまり秀吉の命令を無視して突出、その結果、島津軍に大敗を喫してしまったのである。それだけでなく、軍監という立場にありながら秀久は敗色濃厚となると兵を置いて真っ先に四国へ逃げ帰ってしまったという。「三国一の臆病者」と罵られた秀久のこの行動に秀吉は激怒した。そして、戦後、秀久は所領を没収され高野山へ追放されるという厳しい処分を受けた。
だが、1590年の小田原征伐がはじまると、汚名返上の機会とばかりに秀久は浪人を集めて参戦、先頭を切って戦いに挑んだ。このとき、秀久は鈴を一面に縫い付けた陣羽織をまとい「鈴鳴り武者」の異名をとったという。抜群の活躍を見せた秀久の働きは秀吉軍の勝利に大きく貢献し、秀久はようやく秀吉から許され、信濃国小諸に5万石を与えられ大名として返り咲いたのであった。秀吉没後はかねてより懇意だった徳川家康に接近し、1600年の関が原の戦いでは東軍として参加、戦後は所領を安堵され小諸藩の初代藩主となった。
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