河尻秀隆の首塚(山梨県甲府市)
河尻秀隆
織田信長の家臣でエリート集団「黒母衣衆」の筆頭。美濃国岩村城主や甲斐国府中城主も務めた。通称は与兵衛。別名は重遠、鎮吉。官位は肥前守。
河尻秀隆は織田信長の父・信秀に仕え、信秀没後は信長に仕えた。1558年に信長が弟・信勝(信行)を謀殺した際に実際に信勝を殺害したのが秀隆といわれる。黒母衣衆の筆頭を任せられるほど信長から信頼されていた秀隆は、信長の嫡男・信忠の補佐役も任せられ、1575年の長篠の戦いにも信忠の補佐役として参戦している。特に1582年の甲州征伐での功績は大きく、戦後、その功により信長から甲斐22万石を与えられた。
しかし、1582年の本能寺の変で信長が横死すると旧武田領で武田遺臣による国人一揆が勃発。甲斐国も例外ではなく、秀隆は一揆勢に襲われて殺害された。
Originally uploaded by: さかおり
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