平岩親吉の肖像画
平岩親吉
徳川十六神将のひとりで、『三河後風土記』の著者ともいわれるが定かではない。通称は七之助。官位は従五位下主計頭。
徳川家康と同年齢ということもあり、家康が今川義元の下へ人質に行った時にもこれに従った。家康とは幼馴染のようだったという。そのため家康からの信任あつく、家康の嫡男・信康が元服するとその傅役に抜擢された。だが1579年、信康は織田信長の命により切腹させられてしまう。信康自害後、親吉は謹慎蟄居したが、家康の要請により再び出仕、家康が関東に入国した際もこれに従い上野厩橋(前橋)に3万3000石を与えられた。
1600年の関が原の戦い後は甲斐国甲府に6万3000石を与えられ、さらに、家康の9男・義直の後見役に任ぜられた。そして1607年に義直が尾張藩主となると親吉も尾張へ移りその執政をサポートした。なお、親吉には実子がなく、家康が8男・松平仙千代を養子として与えたが仙千代は夭逝、そのため親吉の死をもって平岩家は断絶した。
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