山県昌景の肖像画
山県昌景
武田四天王のひとり(ほかは、馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信)。軍装を赤一色にそろえ戦国時代最強を謳われた精鋭部隊「赤備え」を率いた人物としても知られる。
旧名は飯富源四郎。別名は三郎兵衛尉。昌景は武田信玄の近習として仕え、使番のひとりとなり、その後、持ち前の武勇から侍大将に抜擢されると数々の軍功を挙げた。1565年、昌景の兄(叔父とも)・虎昌が信玄の嫡男・義信と謀反を企んだとして自害を命じられるという事件が起こった。そして、この謀反計画を信玄に密告したのは昌景であったと『甲陽軍艦』にある。
事件後、昌景は飯富姓から山県姓に改め、虎昌が率いていた「赤備え」部隊を引き継いだ。小柄だったといわれる昌景だが軍事的才能に恵まれ、戦場での武者振りはすさまじかったという。1572年の三方ヶ原の戦いでは、敵将・徳川家康の本陣に突撃し、家康に自害を覚悟させるほど追い詰め、ほうほうの体で浜松城へ逃げ帰った家康が「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ」とつぶやいたという逸話が残っている。
信玄没後はその子・勝頼を補佐したが、1575年の長篠の合戦で昌景の命運も尽きる。この戦いで劣勢に追い込まれるなか決死の覚悟で敵陣に突撃をかけた昌景は、壮絶な最期を遂げたのであった。
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