高坂昌信(弾正)の肖像画
高坂昌信
甲斐武田氏の家臣でいわゆる「武田四天王」のひとり(ほかは、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景)。
信濃国海津(川中島)城の城主でもある。もとは春日氏の出身で、春日虎綱とも名乗った。幼名は源助。通称は源五郎。別名は昌宣、昌忠、晴昌、晴久。あだ名は「逃げ弾正」。官位は弾正忠。
若年の頃より武田信玄に仕え、1556年には敵対する上杉氏との最前線となる信濃国海津城の城代となり、1561年の第4次川中島の戦いでは上杉軍の殿部隊を切り崩すという戦功をあげたという。信玄没後はその子・勝頼に仕え、引き続き海津城を任され、1578年6月12日、同城内で死去した。なお、武田信玄・勝頼の活躍を記した軍学書『甲陽軍艦』は、高坂昌信の口述記録がもとになったものといわれている。
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