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三好長慶の肖像画

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三好長慶の肖像画

三好長慶
幼名は千熊丸。通称は孫次郎。初名は範長。おもな官位は、伊賀守、筑前守、修理大夫、従五位下、従四位下。 三好長慶は、管領・細川晴元の有能な重臣だった三好元長の息子として誕生したが、長慶が10歳のとき、元長の勢力拡大を疎む晴元の策謀により一向一揆に攻められ父・元長は死亡した。幼いころより非凡な才を持っていた長慶は、わずか11歳にして父の敵である晴元と一向一揆の和睦斡旋を行ったという。 その後、三好長慶は晴元に仕え勢力を伸ばしていったがやがて晴元と対立し離反、1549年の摂津江口の戦いで晴元軍に大勝すると、長慶は細川氏綱を擁立し京へ入った。そして、晴元と将軍・義輝を近江坂本に追放し下克上を成し遂げ、ついに”三好政権”を樹立させたのである。三好政権全盛期にはその勢力は摂津を中心に、山城、丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨などにまで及んだ。しかしその隆盛も長くは続かず、永禄年間初頭には衰退の兆しが見え始めるようになった。 そして、家臣・松永久秀の台頭や嫡男・義興の早世などにより長慶の心身はむしばまれ、1564年8月10日、将軍・義輝との問題を残したまま長慶は失意のうちに病によりこの世を去った。

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