足利義輝の肖像画
足利義輝
室町幕府十二代将軍・足利義晴の息子で、十三代将軍。
「剣豪将軍」のあだ名を持ち、剣は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義を授けられたほどの腕前だったという。幼名は菊童丸。初名は義藤。おもな官位は征夷大将軍、左近衛中将、正五位下左馬頭、参議、従一位左大臣。
1546年、足利義輝がまだ10歳の時に父・義晴から将軍職を譲られ、亡命先の近江国坂本で将軍の座に就いた。1548年、父・義晴と敵対していた管領・細川晴元の間に和睦が成立し、将軍・義輝も京へ戻ることができた。だが、晴元とその家臣で力を伸ばしつつあった三好長慶が交戦、敗れた晴元によって義晴・義輝父子は再び京を追われ近江国坂本へ逃れる。さらに父・義晴が死去すると、義輝は朽木へと移り、以後、1558年に三好長慶と和解し京へ戻り幕府政治を再開するまで同地ですごした。
京へ戻った足利義輝は幕府と将軍の復権を目指し、各地の戦国大名たちと積極的に面談したり、大名同士の争いの調停を行うなどして次第にその存在感を確かなものにしていった。とはいえ、三好長慶の権力はなおも強大で将軍・義輝との対立は続いていたが、その長慶が1564年に病没、権威回復に執念を燃やす義輝に絶好のチャンスが訪れた。しかし、長慶にかわって権力を握ろうともくろむ松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が義輝の前に立ちはだかった。
そして1565年6月17日、松永久秀と三好三人衆はついに義輝に対し謀反を起こし、二条御所を襲撃するという暴挙に出た(永禄の変)。義輝は「剣豪将軍」のあだ名にふさわしく自ら剣をとって奮戦したが、多勢に無勢、自害し果てた。
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