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大久保長安の肖像画

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大久保長安の肖像画

大久保長安
能役者から徳川幕府の勘定奉行、老中に昇りつめた異色の人物。 通称は藤十郎、十兵衛。おもな官位は従五位下石見守。長安は1545年、武田信玄お抱えの猿楽師・大蔵太夫金春七郎喜然の息子(次男)として誕生した。 信玄からその素質を買われた長安は、猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、財政や農村支配、鉱山開発などに力を発揮するようになった。1582年に武田氏が滅亡すると長安は徳川家康に仕えるようになり、家康の側近・大久保忠隣の与力となったため姓を大久保と改めた。家康が関東に入ると、長安は伊奈忠次や青山忠成らとともに関東代官頭となり直轄領の支配を一任され、直轄地経営、検地などに活躍した。また、旧武田家臣団を中心とした八王子千人同心の創設を家康に提案した。 大久保長安が特にその経理の才能を発揮したのが鉱山経営で、佐渡金山や石見銀山などの鉱山に新技術を導入し生産量を大幅に増加させ幕府財政を大いに潤わせた。辣腕を振るった長安は異例の出世を続け、石見奉行、甲斐奉行、佐渡奉行、所務奉行(のちの勘定奉行)を兼任、同時に老中(当時は年寄)に列せられるまでになり、絶大な権力を握った。ちなみに、現在も残る里程票(一里、一町、一間)を整えたのも長安である。 しかし、長安の権勢を支えてきた鉱山も長安の晩年になると採掘量が減り始め、それに比例するように長安に対する家康の寵愛も薄まっていき、次々と代官職を罷免されていった。そして、1613年6月13日、失意のうちに病によりこの世を去った。さらに、長安の不幸は続く。その死後、生前に長安が不正蓄財を行っていたという理由で遺児7人(男子のみ)が死罪、縁戚関係にあった諸大名も連座というかたちで改易に、長安の庇護者であった大久保忠隣らも失脚することになったのだ(大久保長安事件)。 この裏には大久保派と政権争いをしていた本多正信・正純父子の陰謀があるといわれている。

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