History Guide

朝倉義景の肖像画

sengoku

朝倉義景の肖像画

朝倉義景
越前に君臨した戦国大名・朝倉氏最後となる十一代当主。 父は朝倉孝景、母は武田氏の一族の娘。幼名は長夜叉。初名は孫次郎延景。おもな官位は従四位下左衛門督。義景は1533年9月24日に朝倉氏十代当主・朝倉孝景の息子(長男)として誕生したが、幼少期に関しては不明な点が多い。 1548年、父・孝景の死去にともない家督を継ぎ、1552年には室町幕府十三代将軍・足利義輝から「義」の一字を賜り義景と改名した。1565年、将軍・義輝が松永久秀(弾正)らに暗殺されると、翌1566年、義輝の弟・足利義昭が義景を頼って越前にやってきた。義景に保護された将軍・義昭は朝倉義景に上洛を促す。義景にとって天下取りの絶好のチャンスが到来したのである。だが、義景は動かず、やがて義景を見限った義昭は越前を去り、その後1568年、織田信長によって上洛を果たす。 上洛した信長は義景に2度にわたって上洛を命じたが、越前を留守にすることを嫌った義景はこれを拒否。だが、これが「将軍に叛意あり」とされ、1570年、義景は織田信長・徳川家康連合軍による越前侵攻にさらされることになった。織田信長の義弟・浅井長政が信長を裏切り朝倉方に味方したため一度は信長を撤退させることに成功したが、同年、再び織田・徳川連合軍が侵攻、義景は浅井長政と連合し姉川で激突したが敗れた(姉川の戦い)。だがこの3ヵ月後、挙兵した石山本願寺の討伐のため信長が摂津へ出兵すると、これを好機と見た義景は浅井軍と共同して南近江に出陣、はじめは信長軍を追い詰めたが打ち破ることはできず、最終的に講和を結んだ。 1572年、同盟者である浅井長政の居城・小谷城が信長に包囲された。義景も支援に向かったが、突如、越前に撤退、同じく同盟関係にあった武田信玄らを唖然とさせた。さらに翌1573年、大軍を率いた信長が再び近江に侵攻、義景も自ら出陣しこれを迎え撃ったが家臣らの裏切りもあり大敗を喫し、義景は一乗谷を放棄し敗走した。そして一乗谷は信長軍により火に包まれ、朝倉氏の栄華もここに潰えた。一方、義景は一族の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に潜んでいたが、その景鏡までも裏切るに至り、ついに義景は自害し果てた。義景の子息も殺害され、朝倉氏は滅亡した。

このエントリーをはてなブックマークに追加