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北条氏直の肖像画

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北条氏直の肖像画

北条氏直
後北条氏の五代当主で戦国時代における最後の小田原城城主。 父は北条氏政、母は武田信玄の娘・黄梅院、妻は徳川家康の娘・督姫。武田勝頼の甥にあたる。幼名は国王丸。通称は新九郎。別名は見性斎。おもな官位は左京大夫、従五位下。 北条氏直は1580年に家督を継いで北条氏五代当主となったが、その後も実権は父・氏政が握り続けた。1582年、関東管領を称する滝川一益と激突、氏直はこれを破り上野から信濃に侵攻すると信濃中央部を制圧した。さらに同年、今度は武田旧領をめぐって徳川家康と甲斐国若神子で対陣した(天正壬生の乱)。戦いは長引きこう着状態が続き、最終的に、上野は北条が、甲斐信濃は徳川が領有すること、家康の娘・督姫を氏直の正室とすることで和睦が成立、両家は同盟関係となった。 その後も氏直は勢力拡大に努めたが、天下人となった豊臣秀吉が私戦を禁じる「関東惣無事令」を発令、1589年に北条氏の家臣・猪俣邦憲が起こした名胡桃城奪取事件がこの惣無事令に引っかかってしまった。そして、結果的に秀吉による小田原攻めを招いたのである。翌1590年、20万以上もの大軍を率いて秀吉が小田原攻めを開始。これに対し氏直も徹底抗戦したが、3ヶ月にもおよぶ籠城戦の末、秀吉に降伏、小田原城は開城となった。ここに関東の覇者として100年にわたって君臨した北条氏も終わりを迎えた。父・氏政とその弟・氏照は切腹となったが、氏直は家康の娘婿だったこともあり切腹を免れ、紀伊国高野山に蟄居となった。 1591年、豊臣秀吉と対面した北条氏直は許され、豊臣大名として復活を果たした。だが、同年12月19日、氏直は病により大坂で没した。

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