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前田玄以の肖像画

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前田玄以の肖像画

前田玄以
豊臣政権のいわゆる「五奉行」のひとり(ほかは、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家)で、京都奉行を務めた。 初名は基勝。通称は孫十郎。号は半夢斎、徳善院。一般的に知られている「玄以」は法名である。官位は民部卿法印。 前田玄以は比叡山延暦寺で出家し僧となったが還俗し、織田信長の嫡子・信忠の家臣として仕えるようになった。1582年の本能寺の変で信忠が自害すると、その遺命により玄以は信忠の子・三法師(のちの秀信)を連れて京を脱出、尾張国清洲城へと逃れた。その後、玄以は信忠の弟・信雄から京都所司代に任命され、京市中の民政などに手腕を発揮し実績を上げた。 豊臣秀吉政権下でも京都所司代として大いに働き、朝廷との交渉役も担うなど秀吉からもあつく信任され、1598年には五奉行のひとりに任じられるまでになった。秀吉没後、1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると玄以は西軍に属す。だがその一方、密かに徳川家康にも通じ、本戦の際はなにかと理由をつけて最後まで前線に出ることはなかった。これにより戦後も丹後亀山の本領は安堵され、亀山藩の初代藩主になっている。思慮深く私欲のない人物だったという。

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