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長宗我部盛親の肖像画

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長宗我部盛親の肖像画

長宗我部盛親
四国の覇者・長宗我部元親の息子(4男)。 幼名は千熊丸。通称は右衛門太郎。号は祐夢。おもな官位は土佐守、宮内少輔。盛親は4男であったが、長兄・信親が戦死したため父・元親から世子に指名され、1599年に長宗我部家の家督を継いだ。 翌1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、当初、盛親は徳川家康に味方しようとしたが失敗、やむなく西軍に与した。だが、本戦に参加することができぬまま西軍は敗北、盛親は軍を率いて土佐へ帰国した。戦後、すべての領土が没収され長宗我部家は改易となり、盛親は牢人として京へ送られた。盛親は同地で「大岩祐夢(幽夢とも)」と名を変え、寺子屋の師匠などをしながら生計を立てていたという。 そして1615年、徳川と豊臣の対立が激化し一触即発の状況となると、盛親のもとへ豊臣秀頼から大坂城入りの誘いが来る。長宗我部家再興を果たす千載一遇のチャンスに盛親はすぐさまこれに応じ大坂城へ入城、真田幸村(信繁)、後藤又兵衛(基次)、毛利勝永、明石全登とともに「五人衆」として豊臣方の主力となった。盛親は1616年の大坂夏の陣で激戦となった八尾・若江の戦いにおいて徳川軍の猛将・藤堂高虎の軍と激突、藤堂軍を壊滅寸前まで追い詰めた。しかし奮戦むなしくあと一歩のところで敗走、再起を図り潜伏していたところを捕縛され六条河原で斬首、その首は三条河原にさらされた。これにより長宗我部氏の本流は途絶えた。

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