安国寺恵瓊の像
安国寺恵瓊
臨済宗の僧で、僧籍のまま大名になった異色の人物。
「安国寺」とは恵瓊が住持した寺の名である。幼名は竹若丸。法名は恵瓊。号は一任斎。安芸国の守護大名・武田氏の出身といわれる恵瓊は、安芸国の安国寺に入って出家、その後、京の東福寺住持・竺雲恵心に弟子入りした。竺雲恵心が毛利隆元と親交があったことから恵瓊も毛利氏と関わるようになり、やがて持ち前の弁舌をもって毛利氏に仕える外交僧として活躍するようになった。
安国寺恵瓊は時代を見る目に優れており、1573年末頃に織田信長時代の終焉と羽柴秀吉の有望さをつづった将来を予見するような手紙を書いたことは有名だ。1582年、羽柴秀吉による高松城攻めの際には秀吉と毛利氏の和睦交渉に当たり手早くこれをまとめ、結果的に秀吉の天下取りに貢献、これにより恵瓊は秀吉からあつく信頼されるようになった。以後、恵瓊は秀吉の外交僧として活躍し、その功績により伊予国に2万3000石を与えられ、その後さらに加増され6万石の大名となった。
武将としても活躍しており、1592年からの文禄・慶長の役では戦闘にも参加している。秀吉没後、1600年に関ヶ原の戦いが勃発すると、恵瓊は毛利輝元を西軍の総大将に引っ張り出すことに成功したが、吉川広家らの裏切りもあり西軍は敗北、恵瓊は捕縛され六条河原において斬首となった。その首は石田三成、小西行長とともにさらされた。
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