宇喜多秀家の肖像画
宇喜多秀家
豊臣政権五大老のひとり(ほかは、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝)。妻は前田利家の娘で豊臣秀吉の養女となった豪姫。
幼名は八郎。通称は備前宰相。別名を羽柴秀家、豊臣秀家という。号は久福。おもな官位は権中納言、左近衛権中納言、侍従、参議。
宇喜多秀家は1572年に宇喜多直家の次男として誕生、9歳の時に父が死去したが、翌1583年、羽柴秀吉の斡旋で織田信長から遺領相続を許され家督を継いだ。前田利家の娘で秀吉の養女・豪姫と結婚した秀家は、前田・豊臣両家の血縁として特別の扱いを受け、秀吉からも寵愛された。
1585年の紀州征伐をはじめ、1586年の九州征伐、1590年の小田原征伐などに参戦、1592年からの文禄の役には大将として出陣するなど大いに活躍した。こうした功が認められ若年ながら五大老のひとりに任じられるまでになった。1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると宇喜多秀家は西軍の副総帥となり、西軍主力として積極的に東軍と戦い、猛将・福島正則と激戦を繰り広げた。
だが奮戦むなしく西軍は敗北、秀家は薩摩の島津義弘を頼って落ち延びその庇護を受ける。なお、宇喜多家は徳川家康によって改易となった。その後、島津・前田両家の懇願により死罪を免れ、駿河国久能山に幽閉。さらに1606年、八丈島に配流となった。そして1655年12月17日、同地で死去した。
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