吉川広家の肖像画
吉川広家
吉川元春の息子(3男)で祖父は毛利元就。
幼名は才寿丸。経信、経言とも名乗った。別名は次郎五郎、又次郎、蔵人頭。おもな官位は従四位下民部少輔、侍従。
広家は3男だったが、父と兄が相次いで死去したため1587年に吉川家の家督を継ぎ、14万石の所領も受け継ぐと、父・元春と同じく主家・毛利氏を支えた。1600年の関ヶ原の戦いでは主家である毛利輝元が西軍の大将に担ぎ出されてしまったが、徳川家康の勝利を確信していた広家は親交のあつかった黒田長政を通じて東軍に内応、毛利軍の動きをけん制すると本戦への参加を阻止した。
戦後、敗軍の大将となった毛利氏は存亡の危機に立たされるが、広家は家康から与えられた周防・長門2国を毛利氏に譲りたいと願い出、毛利氏存続のために奔走した。この願いは容れられ、毛利氏は大減封となったものの断絶を免れ、広家は岩国3万石に移住した。その後、広家は領内経営に力を注ぎ、藩政の基礎を確立した。
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