上杉景勝の肖像画
上杉景勝
豊臣五大老のひとり(ほかは、徳川家康、前田利家、宇喜田秀家、毛利輝元)で、米沢藩初代藩主。“軍神”といわれた上杉謙信の甥で、のちに養子となった。
幼名は卯松。初名は長尾顕景。通称は喜平次。尊称は御中城様。法名は宗心。別名として越後宰相中将、越後中納言、会津中納言とも呼ばれた。おもな官位は弾正少弼、越後守、従四位下左近衛権少将、従三位、参議、近衛中将権中納言、贈正三位。
感情を表に出さず、ほとんど笑顔を見せなかったといわれる。1556年1月8日、父・長尾政景と母・仙桃院(謙信の姉)の息子(次男)として誕生。兄が夭折したため世子となり、さらに父・政景も没したため叔父・謙信の養子となった。謙信は景勝をかわいがったという。
だが、謙信は1578年に跡継ぎを決めないまま死去、そのため同じく養子の景虎と景勝の間で家督争いが勃発し、国内を二分する戦争となった(御館の乱)。翌年、景勝は景虎に勝利すると家督を相続し、春日山城を居城とした。
1586年には上洛して天下統一を進める羽柴秀吉と対面、臣下の礼をとりその後ろ盾を得ると越後を統一、さらに1589年には佐渡国平定も果たし版図を広げていった。景勝は、1590年の小田原征伐、1592年からの文禄・慶長の役などに参加、そうした功が認められ1598年には会津120万石の大大名となっている。だが、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍についたため、戦後、出羽米沢30万石に大減封されてしまった。その後は米沢藩主として家老・直江兼続とともに藩政に力を注ぎ、1623年4月19日、米沢城で没した。
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