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井伊直政の肖像画

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井伊直政の肖像画

井伊直政
いわゆる「徳川四天王」のひとり(ほか、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝)。また、徳川十六神将のひとりでもある。 幼名は虎松、万千代。あだ名は、井伊の赤鬼、人斬り兵部。おもな官位は兵部大輔、侍従贈従三位、従五位下、従四位下。上野国高崎藩の初代藩主、近江国彦根藩の初代藩主。 14歳の時に浜松城下で徳川家康に見出され、以降、新参ながら勇猛さと卓越した政治手腕によって家康から重用され、家康の天下取りを第一線で支え続けた。 1582年に武田氏が滅亡すると井伊直政は多数の旧武田家臣団を与えられ、家康から山県昌景の「赤備え」を継承するよう命ぜられる。これにより直政を大将とする精鋭部隊「井伊の赤備え」が誕生し、数多くの戦場で諸大名を震え上がらせるようになった。 徳川家康が関東に入国すると、井伊直政は上野国箕輪12万石を与えられた。1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は家康の4男・忠吉の補佐役を務め、東軍の先鋒を任されていた福島正則を出し抜いて先鋒となり戦いの口火を切った。直政は敵中を突破し退却を図ろうとする島津義弘の軍と交戦、義弘の甥・豊久を討ち取ったが、戦いの最中、島津軍の銃撃を腕に受けてしまった。関ヶ原の戦いでその武勇を見せつけた直政だが、戦後は抜群の政治手腕をもって西軍総大将・毛利輝元との講和、島津氏との和平交渉、大坂城の無血開城など複雑な戦後処理を迅速にまとめあげた。 だが、関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで、1602年3月24日、直政は世を去った。

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