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榊原康政の肖像画

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榊原康政の肖像画

榊原康政
いわゆる「徳川四天王」のひとり(ほか、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝)。また、徳川十六神将でもある。なお、本多忠勝とは同い年である。 幼名は於亀(亀丸とも)。通称は小平太。おもな官位は従五位下式部大輔、贈正四位。 榊原康政は12歳で徳川家康(当時、松平元康)に小姓として仕え、1563年の三河一向一揆で初陣を飾ると、その時に挙げた武功により家康から「康」の一字を与えられた。 1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦いなど数多くの戦いで戦功を立てた康政だが、特にその武名を高めるようになったのが1584年の小牧・長久手の戦いであろう。 小牧・長久手の戦いにおいて、榊原康政は、豊臣秀吉のかつての主家・織田家に対する不義を書き連ねた檄文を秀吉陣営の諸大名に送り付け、秀吉を激怒させた。怒り狂った秀吉は康政の首に10万石の懸賞をかけたという。懸賞首となった康政の小牧・長久手の戦いでの働きは目覚しく、秀吉の甥・羽柴秀次の軍勢を壊滅に追い込んだだけでなく、池田恒興、森長可といった名のある武将を討ち取っている。 徳川家康が関東に入国すると康政には上野国館林10万石が与えられ、その後、家康の3男・徳川秀忠付となった。 1600年の関ヶ原の戦いの際には秀忠に従って参戦。だが、途中の上田城攻めと悪天候のため本戦に遅刻するという大失態を犯し、秀忠は家康の激怒を買った。この時、命がけで両者の仲をとりもったのが康政といわれる。戦後、家康から水戸25万石への加増を打診されたが康政は館林の方が江戸へ近いことなどを理由にこれを固辞。 また、老中職に任ぜられたが、「老臣が権を争うのは亡国のもと」といって本多正信らとの権力争いを避け幕政から遠ざかったという(諸説あり)。1606年6月19日、館林で死去した。

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