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酒井忠次の肖像画

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酒井忠次の肖像画

酒井忠次
「徳川四天王」の筆頭(ほか、井伊直政、榊原康政、本多忠勝)。また、徳川十六神将の筆頭でもある。 幼名は小平次。通称は小五郎、左衛門尉。号は一智。おもな官位は従四位下左衛門督。松平氏の譜代家臣・酒井忠親の息子(次男)。忠次は元服すると徳川家康の父・松平広忠に仕え、徳川家康が人質として今川家に送られるとこれに同行し、以降、家康に仕え続けた。家康からあつく信頼された酒井忠次は、東三河の武士を統率する重要な役目を与えられ「東三河の旗頭」と呼ばれた(西三河の武士は石川家成のち甥の数正が統率)。 酒井忠次は徳川家康の重臣として、1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦いなど家康が関わったほとんどの戦いに出陣し多大なる戦功を挙げた。特に1575年の長篠の戦いでは、織田信長に武田方への夜襲を献策し、落城寸前だった長篠城を救出するという大手柄を挙げて信長を感嘆させた。 その後も家康第一の重臣として活躍したが、1588年、長男・家次に家督を譲ると隠居、1596年12月17日、京の桜井屋敷で死去した。

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