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本多正信の肖像画

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本多正信の肖像画

本多正信
幼名は弥八郎。別名は正行。正保とも名乗った。おもな官位は、従五位下佐渡守。 幼少より徳川家康に仕えていたが、1563年に三河一向一揆が起こると一揆方につき主君・家康に敵対、一揆が鎮圧されると出奔した。その後、しばらく諸国を放浪したが、大久保忠世のとりなしで帰参がかない再び家康に仕えるようになった。 本多正信はやがて頭角を現すと、家康の絶大な信頼を得てその参謀として大いに働いた。特に羽柴秀吉(豊臣秀吉)没後から徳川家康が天下人になるまでに行われた謀略(例えば、「方広寺鐘銘事件」)のほとんどは正信が献策したものともいわれている。1603年、徳川家康が初代将軍として江戸に幕府を開くと、正信は家康の側近として国政に関わり、さらに徳川秀忠が二代将軍となると秀忠付の年寄(老中)として幕政をリード、1614年からの大坂の陣でも高齢の身をおして数多くの策を立てた。 だが、1616年4月に徳川家康が没するとまるでその後を追うかのように同年7月20日、本多正信も世を去った。

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