織田信長の肖像画
織田信長
戦国の三英傑のひとり(ほか、豊臣秀吉・徳川家康)。 幼名は吉法師。通称は三郎。おもな官位は上総介(読み方 かずさのすけ)・右大臣(右府)。 あだ名は第六天魔王、大うつけ、赤鬼。号は建勲。織田信長は、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として誕生し、わずか2歳で那古野城主となったが、若い頃は奇抜な衣装を好み奇行が多く「尾張の大うつけ」と呼ばれていた。だが、妻・濃姫の父である斉藤道三は信長に初めて対面した際、その並外れた器量を見抜いたという。1551年、父・信秀の死にともない信長は織田家の家督を相続したが、弟・信行(信勝)を当主としようとする一派が現れ家督争いが勃発した。一度は母・土田御前の仲介により弟・信行と許したが、信行が再び謀反を起こすにいたったため、信長は清洲城に信行を誘い出すとこれを殺害した。尾張統一を果たした織田信長は、1559年上洛し室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。翌1560年、駿河・遠江・三河を支配下に置く今川義元の大軍が尾張へ侵攻を開始する。これに対し信長はわずか4000の兵で今川軍に強襲をかけ義元を討ち取りその名を天下に知らしめた(桶狭間の戦い)。さらに1567年には斎藤龍興をやぶり美濃を攻略、勢いに乗る信長は「天下布武」を掲げ天下統一を目指すようになっていった。そんな信長に中央進出のチャンスが訪れる。崩壊寸前の室町幕府復活を目指し流浪の身にあった足利義昭が信長を頼り上洛を促してきたのだ。1568年、信長は義昭を擁し上洛すると、義昭を15代将軍に擁立した。1570年、織田信長は朝倉義景の討伐に乗り出し、徳川家康の軍勢とともに越前へ軍を進め、朝倉方の諸城を次々と攻略していった。義弟・浅井長政の離反にあい、金ヶ崎で挟撃されるという窮地に陥った織田・徳川連合軍だが、明智光秀や木下秀吉らの活躍によりなんとか京まで逃れることができた。同年、信長は再び徳川家康とともに朝倉・浅井連合軍と交戦、近江国姉川河原でこれに勝利した(姉川の戦い)。一方、摂津では信長によって京を追われた三好三人衆が挙兵、信長はこれを討つべく進軍を開始したが、この隙をつくように石山本願寺が兵を挙げ、さらに朝倉・浅井連合軍が再び挙兵し近江国坂本へ侵攻した。これに対し信長は、将軍・義昭に朝倉氏との和睦調停を依頼し、朝倉・浅井氏との和睦に成功、危機を乗り越えた。この頃、これまで持ちつ持たれつの関係を保ってきた織田信長と将軍・足利義昭の関係は信長が義昭に対し17条の詰問文を送ったことから悪化し、両者の対立は決定的なものとなった。信長の弱体化を狙う義昭は、浅井、朝倉、三好、石山本願寺、延暦寺、武田信玄らに信長討伐を促し信長包囲網を形成させた。さらに1573年には義昭自ら信長に対し挙兵した。一度は講和を結んだものの、再び兵を挙げた義昭を信長は攻めると京から追放した。ここに室町幕府は事実上滅亡したのである。
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