竹俣当綱の肖像画
竹俣当綱
江戸時代中期から後期の武士。米沢藩上杉家の家臣で藩主・上杉鷹山に抜擢され、莅戸善政(のぞきよしまさ)とともに藩政改革を主導したことで知られる。通称は翁助のち美作、字は君端、号は含章堂主人。3歳の時に父・竹俣充綱が死去したため、家督を継いだ。5代藩主・上杉重定の時、極度の財政難にあえぐ米沢藩の現状を見て、重定に幕府へ米沢藩を返上することを進言したことがある。藩主が鷹山に代わり、鷹山が藩政改革に乗り出すと当綱は民政家で産業に通じていたことを買われ奉行筆頭に抜擢され、以降、農村復興や厳しい倹約政策、新田開発、産業の振興などを進めた。藩政改革の中心人物として辣腕を振るった当綱だったが、専横的な振る舞いも多く、公費の私的流用や不行跡を理由に隠居および謹慎を命じられた。その後、赦免されたが現場復帰はかなわず没した。墓所は山形県米沢市南原横堀にある竹俣家の菩提寺・常慶院。著書に『国政談』『富国談』『樹養諭』など。
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