頼春水の肖像画(谷文晁 画)
頼春水
江戸時代中期から後期の儒学者、詩人。幕末の思想家・頼山陽の父。弟の頼杏坪(きょうへい)、頼春風とともに「三頼」と称される。幼名は青圭、諱は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、通称は弥太郎。春水は大坂で用いた号で、江戸では霞崖と称した。別号に拙巣、和亭がある。安芸国竹原(現・広島県竹原市)の裕福な紺屋の子として生まれる。父が教育熱心だったことから春水も幼少時から京坂の学者から学問を学んだ。長じて大坂へ行き、片山北海を盟主とする詩文結社「混沌詩社」の一員となり活躍した。また、大坂江戸堀北(現・大阪市西区)に私塾「青山社」を開いた。35歳の時、広島藩に藩儒として招聘され、安芸に移住、藩の学制を朱子学に統一した。さらに老中・松平定信に働きかけ朱子学を幕府正学にすると、林家の私塾を官学化し「昌平坂学問所」とし、のち学問所の講師も務めた。墓所は広島県広島市南区にある多聞院。生前、春水は著書を残さなかったが、没後に息子の頼山陽の編集によって『春水遺稿』が刊行された。
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