成島柳北の写真
成島柳北
江戸時代末期の将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。幼名は甲子麿(こしまろ)。武蔵国浅草御厩河岸(現・東京都台東区蔵前)の松本家に生まれ、のち、代々奥儒者を務める成島家の養子となり、養父の跡を継いで奥儒者となり成島柳北を名乗った。柳北は『徳川実記』などの編纂や、13代将軍・家定、14代将軍・家茂の侍講を務めた。維新後の1872年(明治5)には欧州視察随行員として欧米を巡り、欧州では岩倉具視や木戸孝允らと交流した。帰国後は、欧州視察で学んだ共済制度をもとに事業家・安田善次郎とともに日本初の生命保険会社「共済五百名社」(現・明治安田生命)を設立したほか、『朝野新聞』を創刊し、社長業と主筆を兼任した。また、大隈重信が設立した東京専門学校(のちの早稲田大学)の初代議員に就任したり、文芸雑誌『花月新誌』を創刊するなど幅広く活躍した。しかし、肺病のため48歳で他界。著書に日記『硯北日録』、花柳界を描いた戯作『柳橋新誌』など。柳北についての伝記に前田愛の『成島柳北』などがある。ちなみに、俳優の森繁久彌は柳北の姪孫にあたる。
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